い・け・な・い・ルージュマジック裏話。 ( No.10 ) |
- 日時: 2022/01/10 14:30
- 名前: ギーガ
- 参照: https://www.youtube.com/watch?v=GIm9biUx7EA
- い・け・な・い・ルージュマジック制作の顛末については
牧村憲一さんの著書に詳しく載っており今日では人口に膾炙するところですが ご本人の口から伺うとまた違った趣がありますね。
資生堂の部長さんがオークラのラウンジで 牧村さんにウォークマンで聴かせて感想を聞いたという曲を ラジオではボカしてましたが、
それは、 シーナ&ロケッツ「浮かびのピーチ・パイ」(改題されて「浮かびのピーチ・ガール」となる。80年) 作詞は いとい・しげさと 作曲は ほその・はるおみ
とおっしゃったんだと思います。
本当の、この曲の作曲者名義は「イエローマジックオーケストラ」なんですが これだと「イエロー」(80年当時はよくマスコミでこう呼ばれてました) あるいは「ワイ・エム・オー」にしても音数であからさまになっちゃいますからね(笑)
加藤和彦&竹内まりやの「不思議なピーチ・パイ」にコンペで落ちて YMOはがっかりした、という鮎川誠さんの証言がありましたが こんな経緯だったんですね!
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サウンドストリート ゲスト:忌野清志郎 ( No.11 ) |
- 日時: 2022/01/13 13:19
- 名前: ギーガ
- 牧村憲一さんのお話と照合すると。
1981年12月27日に教授と清志郎さんと、牧村さんとでお見合い。 二人に「ぼくらは何をしたらいいの」と尋ねられたというのは、 おそらくこの日でしょう。
12月29日、RCのライブを教授と糸井重里さんが客として見に行く。
1982年1月9日前後。具体的なミーティング開始。この日を含めて3日間。
その後4日間かけて「い・け・な・いルージュマジック」「明るいよ」レコーディング。 教授のドラム→教授のキーボード→教授のベース→ と教授の特別番組『音楽的電気講座』における流れと同じとのこと。
最終日の1982年1月17日、教授30歳の誕生日をお祝い。
1月26日、NHK-FM教授のサウンドストリートに清志郎さんがゲスト出演。 まだレコードになってない、出来立てホヤホヤの「い・け・な・いルージュマジック」をかける。
2月14日、「い・け・な・いルージュマジック」リリース。
3月22日、夜のヒットスタジオ出演。
3月24日、トリオ・ザ・テクノ収録。 教授が「夜ヒット」出演時の清志郎さんのモノマネをやる。
3月27日、「ひょうきんベストテン」中、『ミュージック・フェア』のスタジオを探している体でカメラ前を横切る。 ベストテン司会の島田紳助さんが「おいあれホンモノだよな?」とマジトーンで言ってましたね。 (のちにさんまさんと「いけないお化粧マジック」というパロディソングを出します)
3月30日、トリオ・ザ・テクノの雄姿を放映。
ここまで、早い早い怒涛の展開でしたね。
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赤道小町ドキッ。 ( No.12 ) |
- 日時: 2022/01/14 14:03
- 名前: ギーガ
- 参照: https://reminder.top/264914351/
- 1982年3月30日に、YMOはトリオ・ザ・テクノの名前で漫才を披露
していますが、
翌日4月1日、 資生堂のライバル会社であったカネボウの夏のキャンペーンソング、 山下久美子「赤道小町ドキッ」がリリースされました。
今度は作曲を細野さんが担当。
82年、資生堂の春が教授で、夏のカネボウが細野さんだったということですね。
赤道小町の発売日が「4月1日」だったことから逆算すれば 年初めの1月26日のサウンドストリートで 資生堂の春のキャンペーンソングが忌野&教授のルージュマジックであることを カネボウ側のスタッフは初めて知った、ということも考えられますね。もしそうなら話としては面白いです(笑)
それで、カネボウは対抗して 細野さんに発注したのではないか(笑)
こんな推測をたてることが可能ですね。
でも。
残念ながら「きっとうまくいく6」でリンク先の山下久美子さんのディレクター福岡智彦さんの証言をご紹介しましたが 真相は違ってました。
サウンドストリートの前日である「1月25日月曜日」に赤道小町はすでにレコーディングに入っていたのでした。
このキャンペーンソングの選定には最低3曲からのコンペの形をとりましたから、 1月25日よりずっと前に細野さんは発注を受けて(こういうのはマネ―ジャーさんが打ち合わせの記録を付けてないと特定できないと思います)、 詞に曲をつけ終わってデモテープを提出(おそらく81年11月21日『テクノデリック』リリース後の国内ツアーであるウィンターライブの間を縫って)、 カネボウ他、広告代理店もレコード会社も山下さんサイドもOKが出てコンペに勝ち抜き 1月25日という具体的なレコーディングスケジュールが立った、ということになりますね。
どのみち、1月26日、資生堂が教授であることを知りカネボウ側(細野さんも含む)が驚いた!であろうことは 想像するだにおかしいです(笑)
もうひと話。 1982年、資生堂の春のキャンペーンソングがルージュマジックだったときの 対抗する82年、カネボウ春のキャンペーンソングは、ハウンドドッグの浮気なパレットキャットで モデルはのちにYENレーベル初にして最後のアイドル、小池玉緒さん(「三国志 愛のテーマ」「鏡の中の10月」)だったんですよね。
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赤道小町ドキッCM。 ( No.13 ) |
- 日時: 2022/01/15 13:39
- 名前: ギーガ
- 細野さんは歌謡曲講義の中で
このころフックの作り方を覚えた たとえば「赤道小町」のフックは ♪ドキッ ドキッ のところ
とおっしゃっています。
私は当然♪きみは 赤道こまっ・ちっ だとずっと思っていたのでこの発言に驚きましたが
CMをあらためて見て納得(笑)
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赤道小町ドキッ指ドラムカバー! ( No.14 ) |
- 日時: 2022/01/16 19:35
- 名前: ギーガ
- 参照: https://www.youtube.com/watch?v=oFy8HTGPcWE
- 「赤道小町ドキッ」のWikiには
松本隆さんの詞は大分前に出来ていたが、細野さんがなかなか曲がつけられなく レコーディング当日になって、スタジオで曲の骨格を作り、 CMキャンペーンソングのため、スケジュールを送らせることは出来なかったので ドラム演奏で呼ばれたユキヒロさんと大村憲司さん(この曲の編曲者のクレジットは「大村憲司」となっている)と細野さんの3人でなんとか作った
・・みたいに書かれていますが、2つ上のリンク先の山下久美子さんのディレクター福岡智彦さんの証言により、 これは間違いであることが判明していますね。 スポンサーの課した3曲以上からのコンペだったので、当然細野さんは曲を仕上げて提出しており、見事コンペに勝ったことで スタジオ録音となったのですからね。当日、作ってる訳がない。
おそらくその発端はテクノ歌謡に関する本の中での松本隆さんへのインタビューで 他の曲と記憶が混同されそれが引用に次ぐ引用で、いつしか定説となってしまったのでしょうね。
※これは余談になりますが、82年のカネボウの夏は「赤道小町ドキッ」で 対する資生堂の夏のキャンペーンソングは・・・というと、矢沢永吉さんの「LAHAINAラハイナ」でした。 じゃあ、秋は・・・というと、それはまたの機会に(笑)
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教授、お誕生日おめでとうございます。 ( No.15 ) |
- 日時: 2022/01/17 12:24
- 名前: ギーガ
- 本日、1月17日は坂本龍一さんのお誕生日。
70歳になられました!
で。話題を何にしようか考えましたが いま、40年前の、教授が30歳になられた頃の話をしていますので ユキヒロさんに提供した「フラッシュ・バック 回想」の話をしたいと思います。
7:53〜 現在も発売されている『明星 中華三昧』(1981年10月発売開始)のCMです。2本あります。
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美雨ちゃんのインスタ。 ( No.16 ) |
- 日時: 2022/01/18 12:33
- 名前: ギーガ
- 参照: https://hochi.news/articles/20220117-OHT1T51068.html?page=1
- 昨日は、教授の古希の誕生日であることの記事が
ネットにどこからも上がらないなア と寂しく思っていたらスポーツ報知に出てました。
「フラッシュバック」の話は明日にします。
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「フラッシュバック」提供のいきさつ。 ( No.17 ) |
- 日時: 2022/01/19 16:37
- 名前: ギーガ
- ご本人のおはなしをどうぞ!
9:30〜 あたりから。 
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考察。 ( No.18 ) |
- 日時: 2022/01/20 19:37
- 名前: ギーガ
- 1983年くらいだったでしょうか、AMのTBSラジオで20:00ぐらいに30分番組で
「高橋幸宏バンドライブ」という放送があったんですよ。男性アナウンサーがナレーションしてました。 (今思えば初のソロライブアルバム『タイム&プレイス』の音源をかけたんだと思います)
そのときに私は初めてユキヒロさんが日本語詞で唄っているのを聴いて、 ユキヒロさんというと英語詞のイメージでしたから ビックリしましたね。それに耳に残るいい曲だなと。 初期YMOにあった中華イメージと、テクノのリピートミュージックで、 なによりそのころのニューミュージック的でないところ! 「フラッシュバック」にはそんな思い出や印象があります。 (ユキヒロさん、ときどきライブでやってください。全然やんないんだもんなア。 82,3年当時わたしのまわりでバンドコピーしていた人は、このフラッシュバック、前兆、蜉蝣、ドリップドライアイズあたりをレパートリにしていたもんです。思入れがあります。 その場合の対抗はオフコースのコピーバンドでしたね)
明星食品の中華三昧は会社サイトによると、1981年10月27日発売。
81年中は他の作曲家の曲で(CMに「新発売」であることが情報として入っているハズ) 教授の曲は12月末か、82年初頭から流れたと。 82年4月からは中華三昧の新商品が出ているので、その間でしょう。 期間的にもご覧いただいたCM2タイプで3〜4か月ですし丁度よい。
81年12月27日までYMOはウィンターライブを行っていました。 そのあとユキヒロさんは年末年始の休みで、リラックスした状況でTVでご覧になったのでしょう、 そして音色から教授ではないかと推測、 事務所に問い合わせて実はそうだったと判明したと。
で、スケジュールの都合で(たぶん)羽田空港からどこかへ向かう教授をユキヒロさんは待ち合わせし 教授は(多分ウォークマンで)ユキヒロさんにその場で曲を聴かせたと。 結局教授はユキヒロさんにあげることを承諾(ラジオを聴くと快諾じゃなかった)。 「本当は自分でやりたかった」というところがポイントですね!
さあ、「フロントライン」81年につぐ、シングルで出たかもしれないし 次のアルバムに入っていたかもしれない・・・そうすると『音楽図鑑』です(笑)ボーナストラックで入ってたら面白かった。
で、細野さんのスケジュールによると82年1月9日頃、 スタジオAで「フラッシュバック」のベースを入れる作業をしています。 ※YENレーベルの拠点であるLDKスタジオはまだ出来ていなかったのです(1月20日完成)。
なので、逆算すると1月7日前後「フラッシュバック」のレコーディング開始で ドラム、仮コード、細野さんのベース(前述の1月9日頃)・・・という風だったんじゃないでしょうか。
『ウォット、ミー・ワーリー?(イギリス英語発音での表記)』はこの年の6月25日の発売ですが、 「フラッシュバック」はこのアルバムのマテリアルとして ずいぶんと早くに出来てたんですね!
そして実は「いけないルージュマジック」と「フラッシュバック」は同じころの制作だった、という。
教授がスケジュール都合で(主としてルージュマジックです)、 追加のキーボード演奏を、ユキヒロさんはほかでもない、 YMOの最初のメンバー候補だったところの「佐藤博」さんに頼んだ、 というのがまた興味深いところです。
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フラッシュバック。 ( No.19 ) |
- 日時: 2022/01/24 12:47
- 名前: ギーガ
- 日本的情緒で、中華で、レゲエ。
どうしたら、こんなアレンジが思いつくのでしょうか。
細野さんのベースがあらためて凄いですよね。
イントロはプロフェットによるものだと思いますが、厚いですね。 まったく同じフレーズを同じ音色で、何回か重ねたのかもしれません。
最初の小川が流れていて、桜の花びらが舞い降りているような導入部イントロダクションは 上で観ていただいた「中華三昧」の2本目の映像がユキヒロさんのヒントになったのかもしれないなと思っております。
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